私が奨学金制度に批判的なのは、次のような理由からである。 まず次の4パターンがある。 A.勉強の出来る金持ち B.勉強の出来ない金持ち C.勉強の出来る貧乏人 D.勉強の出来ない貧乏人 奨学金はCを救済する制度である。 だが奨学金といっても決してきれいなカネではない、どこかから搾取してきたカネである。 どこから搾取してきたと思う? それはCとDである。
もちろん、ガクレキが社会を発展させ、豊かにしてくれるならば、それも良いだろうが、今の日本、ガクレキなんて既に飽和している(大学を卒業しても、就職先がない、専門が生かせないなんてザラである)要するにコストに見合うメリットが得られていない。 そのような状況で、さらに貧乏人を搾取してまで、高学歴化を推進する必要はあるのか? Cを救済するよりも、Bを排除する方が先決ではないのか? 「2−14 大奥の原理」でも少し触れたが「貧乏人を大学に行かせる方法を考える」のではなく「金持ちを大学に行かせない方法」を考えた方が正解である。 学歴税を導入すれば金持ちは頭を冷やす事になる。 では学歴税(マトリクス累進による所得税)について具体的な話をしよう。 「マトリクス」と聞くと、数字がいっぱい出て来るSF映画を連想する人も多いだろう。 このように、数字が縦横に並んだ(数学で言うところの)行列をマトリクスと言う。 ではマトリクスを税制度に組み込めば、どのような利点があるかについて説明しよう。 現行の所得税は、年収により税率が決まる「単純な累進」である。 つまり年収によって、 単純累進: 5, 10, 20, 23, 33, 40, 45, .... 国税庁のホームページを見ればわかるが、このように年収の増加に応じて、パーセンテージが増加し、お金持ちほど、高い税率でより多くの税金を納めるようになっている。 マトリクス累進とは、これをさらに発展させ、税率の計算に「学歴の次元」を追加し「縦横2次元配列」で税率を決定するものである。 例えば、これはあくまでも一例ではあるが、 高卒以下: 4, 8, 16, 18, 27, 32, 36, .... 大卒以上: 6, 12, 24, 27, 40, 48, 54, .... 同じ年収であっても、学歴によって税率に差をつける所がミソ、これを導入すれば(むしろ金持ちほど大学進学には慎重になり)教育格差の問題はおのずと解決する。 と同時に「給付型奨学金」の財源にも使える優れた税でもある(これまでは「貸与型奨学金」があったが、社会人1年生から借金を背負うなど論外であり、奨学金と呼べる代物ではない)。 もっともマトリクス累進だって、実質「貸与型」ではないのかという異論もあろうが、個人の借金ではなく「税」という形態を取ることで、国家レベルの安定性が担保されるという点が異なる(返済猶予などの制度があるにしても、個人の借金となるときついものがある)。 しかも学歴税(マトリクス累進)によって財源が確保されるならば、それほど厳しい条件を付けなくても「給付型奨学金」が実現可能となる(成績条件等の緩和)。 そもそも金持ちはバカでも大学に行けるのに、貧乏人だけ厳しい条件を付けられるのは不公平である。
ところで話は変わるが、ゆとり教育は、平等論を唱えるサヨク日教組の仕業と思っている人もいるが、実はそうではない。 保守派側から出て来たものである。 金持ち特権階級にしてみれば、ガクレキとはあくまでも差別化の道具である(身分制度が廃止され相続税をガッポリ取られれば残るはもうガクレキしかない)そのために、かつてはスパルタ英才教育があったわけだが、詰め込み教育には弊害が多くもう限界、そこで「金持ちの学力を上げる」のではなく「貧乏人の学力を下げる」というのが「新たな差別化手段」として浮上してきた、それがいわゆる「ゆとり教育」である。
もちろん、いまさら詰め込み教育なんてまっぴらであるし、曾野氏の言うとおり、猫も杓子も大学を目指す風潮というのも考え物だが、だからといって一律に「貧乏人は大学に行くな」などと身分制度みたいな事になっても困る。 そこですばらしいアイデアがある。 「学歴税」である。 金持ちも貧乏人も、双方ともまず頭を冷やしてから、大学に行けば良いのである。 奨学金は、返済の要否を問わず、もはや時代遅れである。 元が取れない者が、安易に大学に行くのは考え物である(そのコストを本人が負担しようが、親が負担しようが、社会が負担しようが、誰が負担しようが、いずれにせよ社会に何らかのムリが蓄積される事に変わりはない)。 では奨学金を受ける条件として「元が取れるかどうか判定するテスト」を導入すればどうだろうか? しかしそれに合格するためにまた受験勉強が必要になり、塾や家庭教師と言う話になれば、それでまた教育コストが増大する。 結局、金持ちしか大学に行けなくなり、何のための奨学金か分からなくなる。 あるいは、塾や家庭教師が必要になり、教育コストが増大するのは、学校(日教組)がちゃんと教育していないからだという批判もあろうが、そのような批判は的外れである。 そもそも学校教育制度(特に公教育)の目的は、一定の割合で落ちこぼれを作り出し落として行く事にある。 もしも公教育が、カネを払って行く私塾、例えば公文のように「みんな百点」なんて理念を掲げたら、それこそ保守派から「平等主義=みんな手をつないでゴール的教育」とみなされ攻撃を受ける事になる。 教育コスト増大―――この問題を解決するには、最終的に「頭を冷やす制度」が必要である。
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