前項では、国家が子供を養う=子供限定ベーシックインカムの利点について述べた。 大人のベーシックインカムは、怠けて働かない大人を作るだけだが、子供限定ベーシックインカムには、そのような弊害はない。 なぜなら子供はもともと働いていないし、勉強に関してはムチ(懲戒権)を持った親権者がついているからである。 また、子供限定ベーシックインカムを導入すれば(わざわざ大人のベーシックインカムを導入するまでもなく)大人だってかなり楽になり、それで充分である。 そもそも何人もの息子を養い、塾に行かせ、大学に行かせるから苦しいのであって、もしそれらから解放され、自分の食い代を稼ぐだけなら(今の日本の生産力からすれば)そんなに辛いものでもない。
勤労意欲を失わせるような福祉は要らないが、さりとて現状のままが良いとは決して思わない「重荷」は取り除くべきである。 そういう意味では「子供限定ベーシックインカム」には大賛成、ただそうは言っても、やはり自分の食い代は稼ぐという意識が必要である、そうでないと国家を支える人間がいなくなる。 だから「大人のベーシックインカム」には反対である。 以上が、ベーシックインカムの対する私の見解である。
「大人のベーシックインカム」と「子供限定ベーシックインカム」は分けて考える必要がある。 大人が怠ければ経済は即破綻する。 それに比べ子供は、そもそも働いてないから怠けても直接支障はない、将来的には支障があるが、親権者はムチ(=懲戒権)を持っている、それを適切に行使さえすれば、子供が勉強を怠ける事はない。 大人と子供の違いは大きい。 さて、前項で私は「『自由競争が働いているか』がミソ、核心であって、別に体罰を禁止する必要はない」と述べた。 このように書くと「体罰肯定論者」のレッテルを貼られそうだが、私の主張内容は、いわゆる巷の体罰肯定論とは、次の3点で大きく異なっている。 まず1点目は「学校体罰はこれまで通り禁止」という考え方である。 そもそも(体罰も含めた)躾は、学校ではなく親権者が行うべきものである。 教師の仕事は、子供に勉強を教える事であり、給食費を集めたり、体罰を行ったりする事ではない。
2点目は、一定の安全な方法が必要と言う事だ。 巷の体罰肯定論者は「体罰と暴力は違う」という。 ただ彼らは実際の行動が伴っていない事が多い。 熱湯をぶっかけたりビール瓶で殴ったり、実際にやっている事が暴力と変わらないのでは説得力がない。 尻を叩くとか、通常の暴力とは異なる安全な方法で行ってこそ、初めて「愛のムチ=体罰と暴力は違う」が説得力を持つのではなかろうか?
そして最後の3点目は、子供が親権を選択できるようにする、つまり「親権にも自由競争」を導入するという主張、これは革命的である。 即ち子供が「学校や塾を選ぶのと同様に」親権者を選べるようにするという事である。 これは家族制度の根幹に関わるという点で(単に「体罰反対」を叫ぶだけの左翼よりも)むしろ過激で革命的と言えるだろう。
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