第3章 少子化・年金問題はこうやって解決する

3−8 今すぐ実施すべき「子供限定ベーシックインカム」

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 前項では、国家が子供を養う=子供限定ベーシックインカムの利点について述べた。
大人のベーシックインカムは、怠けて働かない大人を作るだけだが、子供限定ベーシックインカムには、そのような弊害はない。 なぜなら子供はもともと働いていないし、勉強に関してはムチ(懲戒権)を持った親権者がついているからである。 また、子供限定ベーシックインカムを導入すれば(わざわざ大人のベーシックインカムを導入するまでもなく)大人だってかなり楽になり、それで充分である。
そもそも何人もの息子を養い、塾に行かせ、大学に行かせるから苦しいのであって、もしそれらから解放され、自分の食い代を稼ぐだけなら(今の日本の生産力からすれば)そんなに辛いものでもない。

世界には、井戸水を汲むために何キロも歩かねばならない国もある。 蛇口を捻れば水が出て来る日本で、生きて行くのが辛いとするならば、それは何か構造的な問題があるのである。

勤労意欲を失わせるような福祉は要らないが、さりとて現状のままが良いとは決して思わない「重荷」は取り除くべきである。 そういう意味では「子供限定ベーシックインカム」には大賛成、ただそうは言っても、やはり自分の食い代は稼ぐという意識が必要である、そうでないと国家を支える人間がいなくなる。 だから「大人のベーシックインカム」には反対である。
以上が、ベーシックインカムの対する私の見解である。

「大人のベーシックインカム」に反対する理由は次の通り。 現行の生活保護制度にも問題点があるのは承知している。 しかしそれでも大多数の国民が「強い勤労意欲を持って」働いているからこそ生活保護者が曲がりなりにも食えるのであって、もしも勤労意欲が弱まり「釣り竿やゲームを買うためちょっとバイト」程度の「趣味のためにしか働かない人」だらけになれば国全体が貧困化し、現行の生活保護よりもはるかに低い悲惨な生活となり結果として働かざるを得なくなる。 そうなると病気や障害で本当に働けない人は困窮する。 そもそも障害者が生きていられるのは福祉制度に「選択と集中」が機能しているからでベーシックインカムにはそれがない、竹中平蔵によると月7万円もらえるようだが(インフレや増税等で実質はその半分程度の貨幣価値)いずれにせよその程度では透析できない。 まさに「透析患者は殺せ」が現実となる。 このように「働かなくても貰えるわずかなカネ」は老人・障害者を皆殺しにして得られるものである。
筆者は似た話を以前に聞いた事がある。 いわゆる「釣りの話」である。 「魚釣りが楽しいのに仕事が楽しくないのはなぜか、それは大資本に搾取され抑圧されているからだ」という共産党の勧誘である。
もちろん人が働く動機はお金だけではないが、お金は動機として重要である事に今も変わりはない。 もし働かないでも食っていける社会になれば(サヨクがいくらキレイ事を言っても)怠け心が出て来るのではないだろうか、従来通りちゃんと働けるだろうか(勤労意欲は弱まるのではないだろうか)そうはならないとサヨクは言い張る、しかし私としては、ベーシックインカム云々のイデオロギー論争よりも「子供を養い大学へ行かせる重荷」これをまず何とかしてもらいたい、こちらの方が先である。
「子供を養い大学へ行かせる重荷」さえ解消すれば、過労死問題も、少子化問題も、かなりの部分解消する「オトナのベーシックインカム」なんて別に必要ではない。
「子供を養い大学へ行かせる重荷」のうち「子供を養う重荷」「子供限定ベーシックインカム」が解決する。 では「大学へ行かせる重荷」はどうか「授業料無料」は少し方向が違う、そのために税金が高くなり生活が苦しくなるのなら意味がない、授業料無料それ以前に「ムダな学歴を無くしリストラする」事こそ重要、そのための手段が「学歴税」である。 もっとも「学歴税」「授業料無料」「奨学金」の財源としても使えるので、これらの調整を担う税とも言える。
現在の社会はまだまだ強い勤労意欲(多少辛い事があっても働く)によって支えられている。 趣味の釣りと漁師は違うのである。 大人のベーシックインカムは「人工知能が奴隷代わりに仕事をしてくれる時代」にでもならない限り無理、それは100年先か200年先か分からない。 一方「子供限定ベーシックインカム」「今すぐにでも実現出来る」というか「子供の貧困対策」「虐待防止」「少子化対策」として「今すぐ実施しなければならない」ものである(特に虐待は貧乏人だけの問題ではなく従来型の福祉では限界がある)。

「大人のベーシックインカム」「子供限定ベーシックインカム」は分けて考える必要がある。
大人が怠ければ経済は即破綻する。 それに比べ子供は、そもそも働いてないから怠けても直接支障はない、将来的には支障があるが、親権者はムチ(=懲戒権)を持っている、それを適切に行使さえすれば、子供が勉強を怠ける事はない。 大人と子供の違いは大きい。
 さて、前項で私は「『自由競争が働いているか』がミソ、核心であって、別に体罰を禁止する必要はない」と述べた。 このように書くと「体罰肯定論者」のレッテルを貼られそうだが、私の主張内容は、いわゆる巷の体罰肯定論とは、次の3点で大きく異なっている。
 まず1点目は「学校体罰はこれまで通り禁止」という考え方である。
そもそも(体罰も含めた)躾は、学校ではなく親権者が行うべきものである。
教師の仕事は、子供に勉強を教える事であり、給食費を集めたり、体罰を行ったりする事ではない。

巷の「体罰肯定論者」は、学校教育法第11条但し書きを目の敵にするが、そもそもこの条文は体罰の是非ではなく学校と家庭との役割分担「日本人としての公私けじめ」を記したものに過ぎない。 一言で言うなら「縛ったり尻叩いたりするような恥ずかしい事は学校では出来ません」と言う事である。
日本の学校は、生徒を直接殴る事は禁じられており、それゆえ非行があった場合は、親を呼び出す事で、親に殴らせるわけである。 つまりその過程で、学校と親の二重チェックが働くわけで、むしろこれは優れた制度と言えるのではないか?

2点目は、一定の安全な方法が必要と言う事だ。 巷の体罰肯定論者は「体罰と暴力は違う」という。
ただ彼らは実際の行動が伴っていない事が多い。 熱湯をぶっかけたりビール瓶で殴ったり、実際にやっている事が暴力と変わらないのでは説得力がない。 尻を叩くとか、通常の暴力とは異なる安全な方法で行ってこそ、初めて「愛のムチ=体罰と暴力は違う」が説得力を持つのではなかろうか?

戸塚らは、ビール瓶で殴ったり、学校教育法第11条但し書きの「本当の意味」を理解せず噛みついたりしている時点でアウトである。

そして最後の3点目は、子供が親権を選択できるようにする、つまり「親権にも自由競争」を導入するという主張、これは革命的である。 即ち子供が「学校や塾を選ぶのと同様に」親権者を選べるようにするという事である。 これは家族制度の根幹に関わるという点で(単に「体罰反対」を叫ぶだけの左翼よりも)むしろ過激で革命的と言えるだろう。

「親権にも自由競争」「市場原理に晒す」これぞまさしく「学歴税」と並ぶ日本社会のタブーである。
父権復活論なんていうのもあるが、今どきそのようなことを言っても勘違いDV男を増やすだけである。

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