少子化問題の根源は「子供にカネがかかりすぎる」これは誰もが認めている事実であり、だからこそ与野党を問わず「子ども手当」や「児童手当」といった政策が出て来るのである。 だが残念ながら、それだけでは解決しない、その背後にはもっと根深い問題がある。 そもそもなぜそんなにカネがかかるのか、それは誰もが見栄を張り子供を大学に行かせようとするからである。 このような状況下では、子ども手当も児童手当も焼け石に水である。 「子ども手当」を否定するわけではないが、物事には順番・手順というものがある。
「子ども手当」も否定はしないが、それよりも先にやるべき事がある。 それは「親のすねをかじって大学に行く事をやめさせる」という事である。 つまり第2章で述べた「ガクレキ封建体制の破壊」である。 だが、これまで聖域であった教育にメスを入れるのは、与野党とも容易ではない。 「大学に行く事をやめさせる」と言っても、真っ先に引っかかるのが、憲法に定められた「教育の機会均等」である。 これをどう解釈しどう扱うか、核となる思想がなければ、政治家は何も出来ない。 その思想を提供するのが本書の目的である。 さて20世紀は、米ソ両陣営がしのぎを削る冷戦の時代であった。 教育においても平等論を唱える左翼と、英才教育を唱える保守派が激しく対立し、受験戦争が勃発し子供は殴られていた。 もちろん様々な教育改革も行われてはきたが、効果もイマイチなまま、むしろ弊害・副作用をまき散らし今日に至っている。 何1つ根本的には解決できていないのである。 「お受験」にしても、少子化のおかげで、大学全入のゆとり時代にはなったものの、いわゆる名門志向型の受験戦争はなくならないし、虐待や殺人もなくならない。 本質的には何も解決していないと見て良いだろう。 結局「思想がないから」何1つ問題を解決できず、対症療法に終始しているのである。 では日本を救う「思想」とは何か? 日本を救う「思想」となるべき条件は何か? それは「受験地獄を解決できる思想」である。 受験地獄―――こればかりはどんな高僧も解けなかった難題、すべてはそこから始まっている。 ズバリ言おう。 本書が第2章で述べているような厳しい課税を実施すれば「お受験」なんてイチコロである。 それ以外の方法は、学校増設も入試改革も、奨学金その他の救済制度も、火に油を注ぎ、ガン細胞に養分を与えるようなものである。 奨学金なんて何の解決にもならない。 奨学金のおかげで貧乏人が大学に行けるようになれば、それに危機感を抱いた金持ちは(もっとカネをかけ)さらに上位の学校に行くだろう。 そして金持ちのバカ息子を大学に行かせるために、貧乏人は「ますます厳しく」搾取される。 卑近な例で言うなら、借家人の息子が奨学金の助けを借り大学に行くようになれば、それに危機感を抱いた大家は、息子を大学院や難関大学に行かせるだろう。 結果教育コストは増大し、巡り巡って家賃が値上げされるのだ! すると貧乏人はますます窮地に追い込まれる。 だから「奨学金のおかげで貧乏人も大学に行けるようになり平等が実現できる」なんて考えたら大間違いなのである。 結局のところ奨学金には「果てしなく続く高学歴化競争=見栄の張り合い」を「後押しする作用」しかない。 平等も機会均等も実現できないどころか、教育コストは果てしなく増大を続け、国民負担は重くなり、ますます生活は苦しく、少子化・年金問題を引き起こす。 少子化・年金問題は国家財政をますます悪化させ、医療・福祉は確実に後退し、楢山節考の未来が待っている。 まさしく教育ビンボーだ。 経済学を少しでもかじった者なら、奨学金のウソまやかしなんて一目瞭然こういう馬鹿げた制度はもうやめようではないか? みんなが大学に行けば平等社会が訪れるのか、それはとんでもない間違いである。 高学歴化は、社会全体の教育コストを増大させ、そのしわ寄せは、最終的に弱者に向かう。 今こそ考え方を根本的に改める必要がある。 詳しくは第2章16項で述べたが、次のような手順を踏まえる事で、教育コストを大幅に削減し、親の負担を激減でき、少子化問題を解決できる。 【手順1】学歴税(マトリクス累進型所得税)を導入し、安易な学歴取得を抑止する。 学歴も一種の財産とみなし課税する。 そうすることで社会の役に立つ有用な学歴のみが生き残る。 教育コストを削減し「真に平等」で弱者に優しい社会を実現する。 以上をまず実施した上で、さらに、次のステップとして、 【手順2】国家が子供を養う制度(子供限定ベーシックインカム) を、私は提案する。
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