どのようなことでもリスクやコストを認識すべきだろう。 コストを無視し続けると国益を損ねる事になる。 「国益」という言葉で私はあるエピソードを思い出す。 その昔ある有名な小説家が「たしかに受験競争も自由競争の1つにちがいない」と認めた上で「とはいえやたら金がかかり、それ故いずれ崩壊して行くだろう」と予言した。 「金がかかり過ぎいずれ崩壊する」そこに目をつけた彼の予言はなかなか鋭いが、残念ながら予言の半分は外れている。 そもそも受験競争は自由競争とはいえないのだが(それは当時の認識としては仕方がないとして)果たして自然崩壊してくれるのだろうか? 思いの外しぶといというのが率直な印象である。 いずれ自然崩壊するのかもしれないが「自然」に任せていたら、それこそ少子化と財政赤字によって「国家の方が先に崩壊する」のではないか? 私が恐れているのはそこである。 結論は1つ、学歴税を導入し、人工的に破壊する(トドメを刺す)ことだ。 学歴税により、単なる横並び意識から来る学歴取得は抑止され、本当に必要な社会人が大学に行くようになる。 この仕組みによって否応なく生涯学習社会への移行が進み、真に教養・文化あふれる社会になる。 但し「学歴税」にはリスクがある。 もしも社会人が振り向いてくれなければ「日本から大学は消滅する」というリスクだ。 だがそれくらいの危機感がないと、改革は進まないものである。
ちなみに「学歴税」を導入しなかったら、もっと恐ろしい事になる。 これまで通り、オヤジの肩には「子供の人数に比例したN人分の」教育費負担が重くのしかかり、それに年功序列崩壊と格差社会が相まって、少子化・人口減少の流れは止まらなくなり、日本民族そのものが大学もろとも消滅する(尖閣どころの騒ぎではない)。 「学歴税」は、これまで繋がっていた「大学と民族の運命」をデタッチする(切り離す)ものという見方も出来る。 繋がったまま一緒に墜落するか、デタッチしてそれぞれ生き延びるか、私なら間違いなく後者を選ぶだろう。
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