第2章 学歴税(マトリクス累進)を導入せよ!

2−18 より高い生産性を目指して

目次へ


 まず学歴に課税し「見栄メンツ横並び意識による安易な学歴取得にハドメを掛けたうえで」国家が子供を養えば(子供限定ベーシックインカム)お受験など、親の私的エゴは抑制され、それらに起因するトラブル・ムダもなくなる。 そしてより広い視野から、教師の人件費だけでなく、子供の人件費にも目が向けられるようになる。 さらに国家レベルでコスト削減=生産性向上が進み、育児・教育にかかる国民の実質的負担も軽減されるだろう。 お受験などムダなものをいっさい省き、読み書きそろばんの基礎だけしっかりやれば、親の負担も子供の負担も半減する。 そうすれば子供1人分のコストで、2人育てられる計算になる。
 評価とか通知簿なんていうのもムダの1つである。 学校にとってお客様である子供を「評価する」あるいは悪い成績を親に「通知する」という考え方自体が、時代遅れでナンセンスである。 意識改革の意味も込めて、まずは名前を改め、通知簿は病院と同様「診断書」「カルテ」と呼ぶべきである。
 相対評価など論外だが、絶対評価であっても「子供に数字をつけるだけの評価」なら、そんな物はいらない。 必要なのは詳細情報である。 例えば「分数計算が出来ない」とか「逆上がりが出来ない」といった「学習診断書」をつくり、それを塾やスポーツクラブに持って行けば、すぐに補習が出来るようにすればよい。

 イメージとしては、病院が発行する各種検査結果や、レントゲン写真といったものであろうか。
そういう評価ならコストをかけるだけの価値はある。 病院が「おまえの健康度は2だ」と評価しても「2」という数字だけで具体的な内容が分からなければ、患者は何をどうすれば良いのか分からない。 他の病院へ行っても、また最初から検査をやり直さねばならない。 他の教育機関と連携できないような評価、単に「親を怒らせるためだけの評価」など、全くのムダである。
 手間暇コストをかけて通知簿を作成し、悪い成績を親に「通知」し、親を怒らせる事に成功したとしても、それで学力が向上するわけではない。 悪い成績を親に「通知する」なんていうやり方自体が、回りくどく、中途半端で何を目指しているのかよく分からないし、そもそも役に立っていない。
タテマエは色々あるだろうが、評価がいさかいを起こすことはあっても、実際に役立つなんて事はない。
 最近は通知簿を郵送する学校も増えているのだそうである。
もとはと言えば、通知簿をもらった子供が、失踪騒ぎを起こした事が原因だが、郵便物だって失踪するかも知れない。 まったくムダな事に、金と時間をかけているものである。

 評価ともう1つ、教師の手を煩わせているものに給食費の滞納がある。
払える金があるのに払わない親がいる一方で、経済的事情から払いたくても払えない親もいる。
だからこの問題に一律に対応するのは困難である。
 しかし国家が子供を養う制度になれば、給食費滞納問題も一発で解決する。
そもそもなぜ教師が給食費を集めなければならないのか? 教師は子供に勉強を教えるのが仕事だ。
滞納云々以前に「集金で教師や校長を煩わせる」それ自体が生産性の低下である(カネを集めるのは税務署のプロに任せておけばよい)。
 給食費を集める教師も大変だが、親もまた大変である。
ベルマークなんて言うのもムダの1つ、集めるための人件費の方が高くつく、そういうムダで非効率な労力をかけるのも、PTAが嫌われる要因の1つである。

親の負担は「教育コスト」だけではない。 共働きでPTAは面倒だから3人目の子供は諦めるという事態にでもなれば、少子化問題にも直結する。

少人数学級がいいのか、習熟度別がいいのか、あるいはそれらの混成が効率的なのか、それは教育評論家が云々する問題ではなく経済学の問題である。
最近は「教育経済学」が脚光を浴び、教育政策にどういう効果があったのか検証する動きもある。
それは良い事である。 (参考文献:「学力」の経済学、中室牧子著)

ただ気になる点が1つある。 中室氏はその著書の中で、少人数学級よりも、格差を強調する教育を行った方が、学力が向上すると主張している点である。 たしかに本人のやる気に勝るものはないが、しかし格差を脅しに使うのはどうだろうか?
もちろん格差のすべてが悪いわけではない、本当に社会の役に立つ有用な学歴なら誰も文句言わないが、我が国の場合は、大企業に入社するための「身分制度の代用品」としてのガクレキに成り下がっており、そのためにカネを使いまくり、少子化を引き起こしている点が大きな社会問題である。 教育としての効率が上がったとしても、それで出来上がった社会が「士農工商」さながらの閉鎖的身分社会で、社会全体の効率が下がったのでは意味がない点も考慮すべきである。 (教育経済学だけでなく一般の経済学も巻き込んで議論が必要ではないか? 既に家庭教師や個別指導塾にカネをかけている親もいる。 少人数学級のコスパが悪いというなら、そういったものこそやめさせるべきではないか?)
教育を聖域としてではなく経済学として扱うのは評価できる。 ただ課題は他の経済学との連携である。 教育は重要な投資の1つには違いないが、教育だけが投資ではない。 教育以外の投資とのより詳細な比較分析も必要だろう。 その結果「現在の大学はリストラすべきである」という結論も当然あり得るわけで、もしそうなった場合、中室氏は、正直に結果を公表するのであろうか? それともサムライ商法側の立場として保身に回り、格差社会を脅しに、なおも高学歴化を推し進めようとするのであろうか見物である。
最も重要でコスパ(費用対効果)が高いのは幼児教育、その次が小学校、そして中学高校とコスパは下がり続ける。 「大学名に拘りカネを使いまくる」いわゆる学歴(学校歴)社会は、本質的に非効率である。 (問題は経済学者に改革が出来るかどうか、経済学者といえども所詮は大学関係者、自分の首を絞めるような事は言うまい。 時間稼ぎ・パフォーマンスに終わるのではないか?)
最も重要なのは幼児教育である(幼児教育に失敗すれば子供を犯罪者にしてしまう)。 一方、大学教育は、社会人が必要に応じて受ければ良いのであって血眼になるようなものではない(大学無償化が叫ばれても、実際には幼児教育の無償化から始まる、それは政府関係者もそれが分かっているから、もっとも本当は無償化よりも待機児童解消が先なのだが、大学にカネを吸い取られるよりは、それでもましという判断)。
子供の貧困対策とか称してカネをばらまいても、親がパチンコに使ってしまえば意味がない。 とはいえキョーイクキョーイクと使途を限定しても、学者を食わせるだけに終わる(高学歴化が必ずしも子供の幸せにつながらないことはお隣の韓国を見れば分かる)。
教育格差をなくす正しい方法は「親のすねをかじって大学に行くガクレキ封建体制」をやめ、生涯学習社会に移行させる事である(そのためには学歴税が効果的である)。

国家が子供を養う制度、それは教育だけにとどまらず、産業・労働・経済にも影響を及ぼす。
「親は子供を作るだけ」になれば、給料が安くてもやって行けるので、年功序列や終身雇用のような企業の負担となる硬直した制度も要らなくなり、その分、生産性も向上する。
失業保険だって要らなくなる。 私は転職したことがあるが、給付を申請しても待機期間とか給付制限期間とか言って、なかなか払おうとしない。 失業保険なんかに加入するよりも、そのカネを銀行に預けていた方が、すぐ引き出せるだけましである。
それともう1つ「雇用保険」という呼び名が正しいのかどうか。 死ぬまで一生めんどう見てくれるのなら「保険」だが、短期間で早々に打ち切られるものは、そもそも保険とは言わない。
単なる支度金制度である。 だったらなおのこと銀行に預けた方が良い。
「出し渋った上に早々に打ち切る」雇用保険、それに比べれば、銀行の方が手続きも速いし、サービスも良い。 国家が子供を養うようになれば(そして女房も子供も、勝手に生きて行く社会になれば)失業保険など不要になり、役人を大幅に削減できるだろう。

そもそもハローワークは必用か? インターネットの求人サイトで充分ではないか?

ついでに言うと、国家が子供を養う制度になれば、有給休暇も要らなくなる。 我が国は欧米に比べ、有給の消化率が低いなどと言われるが、有給だからこそ休みにくいという側面がある。
そもそも「有給休暇」が必要なのはなぜなのか、なぜ「無給休暇」ではダメなのか?
あなたは考えたことがあるだろうか? その理由は、

@ オヤジの給料には「子供を養い大学に行かせる分(繁殖費)」が含まれており、
A それが「賃金相場」となっているからである。

つまり会社を休んだ結果「子供を養い大学に行かせる分」も含めて日割りで減額されたのでは金額が大きくダメージも大きい。 これでは休めない―――だから有給休暇という制度が必要なわけだ。
 だが国家が子供を養う制度になれば、オヤジは子供を養う必要がなくなる。
そうなると賃金相場は下がり、オヤジの給料は下がるが、それは同時に、会社を休んだ時に差っ引かれる金額も小さくなる事を意味しダメージは小さくなる。
結果として自分1人のやりくり・甲斐性の範囲で気兼ねなく休める。

そもそも自営業には、有給休暇も育児休暇もない。 大企業や役人だけでなく、中小企業や自営業の人たちも含めて、休みやすい環境を作る事が重要である。

休みにくい社会は、疲労を蓄積し、生産性を低下させ、事故のもとである。
いかにして休みやすい社会を作るか「頭を使う」それもまた経済学の問題ではなかろうか?
「国家が子供を養う=親子の経済的分離」これを行う事により、

@ 親は「子供を養い大学に行かせる重荷」から解放され、
A「休みやすい身軽な社会」が実現する。

これは社会の安全性を高め、なおかつ生産性を向上させる、合理的制度である。
もう一度言う「子供を養い大学に行かせる重荷」から解放され身軽になれば「有給」などという大層な制度などなくても、オヤジは自分の甲斐性で、いくらでも休む事が出来る。
また会社は、複雑なコスト計算が不要になり省力化につながる。 そして、なによりも優れているのは、この政策は、大企業や役人だけでなく、中小企業や自営業にも有効である点である。

ちなみに「妻の家事労働を賃金に換算すれば夫の給料よりも高くなった」なんていう不思議な話もあるが「そもそも給料というものには子供を養い大学に行かせる分も含まれている」「それが相場となっている」だから「分離すべきである」と考えるならば、つじつまが合う。

 さて話を戻して、雇用保険だけでなく、それに類する物、例えば育児保険だって要らない。
育児保険は少子化対策の切り札として検討された事もあるが、複雑で中途半端な制度をごちゃごちゃ作れば作るほど、役人の人件費は勿論の事、それに加え(ヒマな役人は余計な事をしてくれるので)無駄遣いも増え、さらに無駄遣いを監視するためにもまたコストがかかり、社会の効率をいっそう低下させる要因となる。 船底についた貝のような「複雑な福祉制度」はこの際一掃し「シンプルな福祉制度=国家が子供を養う制度」一本に統合すべきだろう。

それともう1つ「子育てを社会全体で支援する」という育児保険の考え方、それ自体は悪くはないが忘れてはならない事がある。 それは世の中には子供が欲しくても出来ない夫婦もいるし、結婚したくとも出来ない人もいるという事だ。 そのような人たちの理解を得るためには、まず、

@ 学歴に課税し、親のすねをかじって大学に行く「安易な学歴取得」を抑止する、
A 学歴税を払っても元が取れると判断した社会人が大学に行く。
B 親に負担をかけない生涯学習社会に移行する。

それをやった上で、支援をお願いするのが筋ではないか? 今のままで「子育て支援」したところで、支援で浮いた金が「お受験」のために使われ、受験産業を儲けさせるだけである。
「子育てを社会全体で支援する」結果、子供のいない夫婦や、独身者が不利になるのは、ある程度仕方のないことである。 子供を作らないのか、作りたくとも出来ないのか、結婚しないのか、したくとも出来ないのか、それぞれ事情はあるだろうが、いずれにせよ老後を国家が保証するとなれば、他人の子供の世話になるわけだから、ある程度の負担増はやむを得ない。
ただ問題は、彼らに納得してもらえるかということであり、まずちゃんと筋を通す事である。

前へ次へ

Copyright (C) 2023 K.M. All Rights Reserved.