「天は人の上に人を作らず」と福沢諭吉は述べたが、果たして学問は平等な社会を築くために役立っているのだろうか? 残念ながら学問が平等のために役立ったのは、封建制度を打ち破ったごく初期の頃だけである。 その後すぐに体制側に組み込まれ、今や学歴という形で「身分制度的に」運用されている。 一時期の試験で(それも家庭環境の影響をもろに受ける子供時代の成績で)一生が左右されるというのは、どう考えてもアンフェアだ。 試験制度というタテマエ上は能力主義の形態を取ってはいても「実質は身分制度」である。 つまり「学歴」とは「能力主義を装った身分制度」であり、最も巧妙で悪質な差別なのだ。 差別と能力主義をわざとごちゃ混ぜにして、どこまでが差別でどこまでが能力主義なのか分からないようにしておくとは実に巧妙である。 統計上、大学に行った子供と行けなかった子供を比べると、それぞれの家庭の収入には、明確な相関関係がある。 大学に行けるのはやはり金持ちであり貧乏人は行けないのである。 学歴とは、そして学問とは何なのか? 平等を実現する武器なのか、それとも格差を作り出すための武器なのか? 少なくとも封建制度を打ち破った福沢諭吉の時代には、平等を実現する武器であったはずである。 それはまさに「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」だがその後、東大を頂点とする学歴ピラミッドが形成されてきた。 教育を「貧富の差を無くし」「平等を実現するための武器」といまだに信じ込んでいる人がいる。 しかし文盲が沢山いた福沢諭吉の時代なら「学問を広め国を豊かにし」「学問の力で迷信や差別を排除し」「貧富の差を無くす」という考え方もできようが、そんなのははるか昔の話である。 今や学歴というものは、人にレッテルを貼る手段と化し「貧富の差を正当化し」それを「維持拡大するための武器」として「特権階級の都合良いように」利用されている。 今や学歴こそが最大の迷信であり差別なのだ。 「天は人の上に人を作らず」の言葉とは裏腹に、東大を頂点とする学歴ピラミッドが形成されてきた。 そして高学歴社会=増大する教育費のおかげで、国民生活はますます苦しくなり、国の借金は増え続け、少子化=年金制度破綻の危機に陥っているのだ。 | |||
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