第3章 少子化・年金問題はこうやって解決する

3−14 「神の物差し」と「社会主義」

目次へ


 前項で私は「競争には見識が必要である」と述べた。 左翼の卑屈な平等論もダメだが、一方で競争競争とバカの1つ覚えみたいに、格差を作り出す事ばかり考えている保守派もダメである。
「見識を持って競争しろ」とは「コスト割れするような過当競争はするな」と言うことである。
そもそも「残業代が出ない」「給料が出ない」時点で「その競争は間違っている」と言えよう。

「給料を払わない」のはコスト管理上望ましくない、だから教育にかかるコストを「見える化」しよう「国家が子供を養う制度」にはそういう意図もある。

ただ競争と言っても、何をどういう基準で競争させるのかという問題がある。
実際に子供を競争させるのは難しい。 価値観が多様化した現代においては、誰もが「我が道を行く」人の数だけ道があるわけで、競争自体がなかなか成り立たない。

どうしても競争させたければ、それこそ個性といったものを全面否定し、全員丸刈りの「東大一直線的価値観」に戻すしかない(入江塾)。

保守派の人たちは「左翼の平等論」を批判する、たしかに「悪平等」は良くないだろう。
だが競争というのもまた難しい、そもそも「人間のすべての能力を数値化できる神の物差し」は存在するのか? もしも「神の物差し」が地上に存在し、それでもって給料が決まり、物の値段が決まり、経済がまわるとしたら―――市場経済も民主主義もいらない―――それこそ不正や利権の入り込む余地のない「理想的な能力主義社会」が実現し、これはマルクスが夢見たユートピア「社会主義」である。

社会主義とは本来、能力主義を目指すもので悪平等ではない。 目指すのはあくまでも機会(生産手段)の平等である。 ただ社会主義が頓挫した原因は(悪平等云々以前に)能力を測る肝心の「物差し」が存在しなかったためである。 もしも人の価値を測る「神の物差し」が地上に存在していたら―――社会主義は大成功を収め飛躍的に発展し今ごろ世界は次の発展段階である「共産主義=平等」に移行しているであろう。
日教組などは、平等論の観点から「受験競争」に反対してきた。 それに対し保守派は自由競争の観点から「受験競争」を擁護してきた、曰く「受験競争に反対する者は共産主義者である」だがそもそも受験競争は自由競争と言えるのか? 絶対的「神の物差し」そのようなものを標榜するのは「一党独裁」それこそ社会主義の方なのだ。 ガッコーガッコーの頭でっかち学歴志向は、むしろ社会主義から来ているものである。

「神の物差し」が地上に存在しない以上、評価や競争は必然的に不完全なものとなる。
程々にしておかないと人間を歪める事になる。
競争にはメリットもあるがデメリットも多い、特に人間の多様な能力、多様な価値観を認めない「偏狭な競争」はむしろ成長の妨げとなる。 それに何より給料がもらえないような競争をしてはいけない。

唯一健全な競争と言えば「早く卒業して社会に出る」という事であろうか、とはいえそれは「長い間親のすねをかじって大学に行った者がエラくて」「早く社会に出て働いた者がバカにされる」ガクレキ封建体制の価値観と真っ向から衝突するものである。

前へ次へ

Copyright (C) 2023 K.M. All Rights Reserved.